2009年8月3日月曜日
鉄原DMZ-その1 朝鮮労働党舎
バスは北緯38度線を越えた。
朝鮮戦争でかつての朝鮮民主主義人民共和国は今では韓国の非武装地帯(DMZ/Demilitarized zone)の街である。鉄原は“安保観光”として有名で反北韓(朝鮮民主主義人民共和国)・反共教育に使われている。
朝鮮戦争休戦から半世紀以上が経った今でも情報戦は続けられている。この“安保観光”も立派な情報戦の作戦の一部です。わたしたちが最初に向かったのは“朝鮮労働党舎”です。崩れ落ちないように補強されており、北韓(朝鮮民主主義人民共和国)への敵対心を煽る文章が大きな看板に書かれている。“安保観光”であればこの看板の文章が印刷されたパンフレットを渡されたのだろうか?しかも、日本語で書かれたパンフレットを・・・?。
幸いこのツアーではそんなパンフレットは存在しないのでその存在を残念ながら確認できない。
このツアーの案内人はあの有名な韓国のフォトジャーナリスト李時雨(イ・シウ)さんです。
“朝鮮労働党舎”の説明文の内容について、全くのウソであると李時雨(イ・シウ)さんは言います。
この場所は開放を喜ぶ住民たちと朝鮮労働党の指導者たちとが協力して先ず集まれる場所である広場を作り、この建物も造ったのではのではないか、なぜならば日帝から開放されて大手を振って道の真ん中を歩ける喜びを享受していたであろうこの時期になぜに朝鮮労働党が住民を迫害しなければいけなかったのかの説明がつかない・・・という。
では、この“朝鮮労働党舎”の説明文は李時雨(イ・シウ)さんのいう通り全くのウソであるといえるのか?・・・わたしは、これを聞いて少し穿った見方をすればこの文章は共産独裁政権の部分を韓国右翼勢力に置き換えればそれが事実になるような気がした。
また、李時雨(イ・シウ)さんはこの建物から近代的でリベラル(社会自由主義(英:Social liberalism))な関係が見えてくるという。2階には委員長の部屋が向かって右にあり、委員長室の前を通り3階の講堂へ行くような構造になっているという。今でも韓国では儒教色の強い国ですから、このような権力者の前を庶民がぞろぞろと歩くような構造は今の韓国でもためらいがあるのではないかと・・・。
わたしは元来、ひねくれ者なので、李時雨(イ・シウ)さんに次のような質問というか意見をぶつけて見た。
『わたしが見ると、委員長の部屋の位置と青年会の部屋の位置が封建的な位置関係に見えてくるのだが・・・。その訳は、儒教的な位置関係で向かって右が高位で左が下位であることから、向かって右にある委員長室、向かって左にある青年会の部屋、これはリベラルな思想とは関係ない無意識が成せる選択ではないだろうか?』。李時雨(イ・シウ)さんはこれに『可能性がないわけではないと思います。』と年上のわたしに丁寧に答えてくれた。彼もリベラルな思想とは関係ない無意識が働いたのであろうか?いや、彼は韓国人であるから、彼にとっては当然の事であったといえます。
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■ 李時雨(イ・シウ)さんとは・・・。 (JanJanNews 国家保安法に立ち向かうジャーナリスト・李時雨角 南圭祐 007/12/05より抜粋 )
韓国のフォトジャーナリスト李時雨さんは劣化ウラン弾の報道をしたことで国家保安法違反に問われ、2007年4月19日から5カ月間拘束された。裁判で、検察側は米軍からの圧力もあって死刑を求刑。弁護側は李時雨さんの無罪を訴えるだけでなく、国家保安法の違憲性も訴えている。司法当局によると、李さんは駐韓米軍の化学兵器や劣化ウラン弾の配備状況など、米軍兵器と軍事基地情報を報道し、反国家団体である朝鮮総連などに流出させたとして国家保安法第5条(自発的反国家団体支援など)と軍事機密保護法違反の疑いで拘束された。しかし、これらの情報は、既にアメリカで情報公開法によって公開されインターネット上でも閲覧出来ていたものだった。国家保安法自体も、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権は廃止を公約している(実現されなかった)し、今年10月の南北首脳会談でも南側が廃止を示唆した。 前時代的な法律として認識されており、軍事独裁政権時代の残滓だ。このため李さんの拘束には国際的にジャーナリスト・平和団体から抗議の声が上がった。
■ “朝鮮労働党舎”の説明文
公式サイトより・・・。
この建物は、解放後に北朝鮮が共産独裁政権の強化と住民の統制を目的に建立し、朝鮮戦争前まで使用した北朝鮮労働党の鉄原郡党舎で、悪名を轟かせた所です。 共産治下の5年間、北朝鮮はここで鉄原、金化、平康、抱川の一帯を管掌しながら 良民収奪と愛国人士たちの逮捕、拷問、虐殺などの身の毛がよだつような蛮行を数多く行い、1度ここに連れてこられると死体または死体当然にならなければ出れないほど無慈悲な殺戮(さつりく)を行った所です。この建物の裏の防空壕からは、多くの人骨と共に蛮行に使用した数多くの実弾と針金などが発見されました。近代文化遺産登録文化財第22号に指定・管理されています。
■ 文化と沿革北緯38度/東経127度にある江原道・鉄原を公式サイトの日本語ページより紹介します。
http://www.cwg.go.kr/cheorwon/Foreign_Language/jap/main.asp鉄原郡は、高句麗時代には鉄原または毛乙冬非と呼ばれた。新羅時代の景徳王の時には鉄城と呼ばれ、その後、弓裔が兵を起して西暦901年に国を建て、道邑を楓川院(現在の鉄原郡北面洪元里)と定め、国号を摩震、年号を武泰から聖冊とし、その後、水德万歳、政開と定めて18年間統治し、西暦911年に国号を泰封と改称した。高麗時代の太祖の時(918年)、鉄原と改称した後に東州に改名した。成宗14年(995年)乙未に団練使を置き、穆宗8年(1005年)乙未に団練使を廃止し、顕宗9年(1018年)戊申に知東州事を置いた。高宗41年(1254年)甲寅に県令により降等したが、後に牧となった。そして忠宣王2年(1310年)庚戌年に再び鉄原府となった。李朝・太宗13年癸巳に朝鮮朝の通例により都護府となった。世宗26年(1434年)に京畿道から江原道に移管され、英祖22年(1747年)に春川から鎮管の都護府を移設し3府6県を管轄した。
高宗32年(西暦1895年)5月26日の現勅令第98号により春川府鉄原郡となり、1869年8月4日の勅令第36号により江原道鉄原郡となり、東辺、葛末、西辺、新西、松内、寬仁、北面、漁隠洞、畝長などの9面を管轄していたが、1914年3月1日の郡面の廃合により京畿道朔寧郡の乃門、寅目、馬場などの3つの面が鉄原郡に併合され、西辺、東松、葛末、漁隠、北面、新西、畝長、乃門、寅目、馬場の10面に改編され、西暦1931年4月1日の府令第103号により西辺面(鉄原面)が邑に昇格した。西暦1945年8月15日の日帝からの解放と同時に北緯38度線を境界として南北に分断され、鉄原郡の全域が共産治下に入ったが、朝鮮戦争以降に国軍の北進により一部の地域が修復され、西暦1963年1月1日の法律第1178号により旧金化郡の中の8つの邑面(金化、西面、近北、近東、近南、遠東、遠南、任南)が鉄原郡に編入され、新西面が京畿道漣川郡に編入された。西暦1972年12月28日の法律第2395号により前鉄原郡北面楡井里、洪元里と乃文面篤検里を鉄原邑に、前平康郡南面亭淵里が葛末面に編入された。西暦1973年7月1日の大統領令第9409号により鉄原郡西面清陽里と道昌里が金化邑に編入され、1979年5月1日の大統領令第9409号により葛末面が邑に、1980年の大統領令第10050号により東松面が邑に昇格して4邑7面で今日に至っている。
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