2009年11月1日日曜日

DMZ ・ 도라산(都羅山)と西大門刑務所歴史館

DMZ ・ 도라산(都羅山)と西大門刑務所歴史館



統一展望台は한강(漢江) と임진간(臨津江)が合流する所に位置し、その眺めは壮大でまさに南北がひとつになる場所、統一にふさわしい場所にこの統一展望台があるのだと感じました。개성(開城)の街は望遠鏡で見れば直ぐ近くに見え、互いを繋ぐ一筋の希望がそこにある。そんな風景に感動してました。展示場には共和国の暮らしぶりが紹介されてたりします。また。韓国の歴代大統領や著名人の統一への願いを書いた色紙があったり、南北共同宣言の実物模写(実物ではないと思う)があったりしました。



そして統一といえばこの曲♪임진간(臨津江)♪がBGMで流れていました。看板には南北の歌詞(南北で若干歌詞が違う)、フルコーラス分の歌詞が書かれていました。通常耳にするのは一番だけなので二番の歌詞が確認出来た事はラッキーでした。♪임진간(臨津江)♪は韓国ではあまり知られていないというイメージだったのですがこういう所に来れば聞けるのだということがわかりました。また、最近の韓国ではこの♪임진간(臨津江)♪は映画「パッチギ」で韓国でも有名になっているとか・・・。日本の韓流は逆流して在日の文化が韓国に浸透して来ている事を実感しました。

경의선(京義線)に乗って서울(ソウル)から평양(平壤)までという노레페우리나라(ウリナラ)の歌詞のほんの一部、임진간역(臨津江駅)から 도라산역(都羅山駅)までのたったの一駅、約五分、が今日の旅の一番のひと時でした。この先に개성(開城)そして평양(平壤)が繋がっていると思うと胸が締め付けられる思いでした。行くに行けない寂しさをこの도라산역(都羅山駅)とアリラン峠と重ねて思い浮かんだのが노레페우리나라の”6.15 아리랑(6.15アリラン)”という歌でした。この歌のように遠くない未来、自由に경의선(京義線)に乗って行き来出来るその時にはみんなで行きましょう!개성(開城)へそして평양(平壤)へ。。

도라산역(都羅山駅)からはバスで第三トンネルと도라전망대(都羅展望台)をめぐり、平和村の中にある「自由食堂」で昼食をする事に된장찌개(テンジャンチゲ)や豆腐や불고기(焼肉)を頼み、みんなで食べていると時間が来たので直ぐにバスに戻るようにと言われ、あわただしく少し料理を残したまま食堂を後にし、도라산역(都羅山駅)へと戻っていった。もう少しゆっくりと食事がしたかったのに完全に監視された中ではそんな自由はない?・・・。





ソウルに戻ってきて西大門刑務所歴史館の駐車場に車を停めた目の前の一段高い位置にあるそう大きくはない一角のトイレのある場所が”戦争と女性の人権博物館”が建つ予定の場所だと教えてもらいました。
起工式が済んでいるにも関わらずまだ、トイレはそのまま使用できる状態でした。
西大門独立公園内は駐車所や서대문 형무소역사관 (西大門刑務所歴史館)が工事中なので順番待ちなのかそれとも独立運動関連団体の圧力で遅れているのか真意のほどはわかりません。

서대문 형무소 (西大門刑務所)は日本植民地時代に先駆けて、1908年、日本によって建てられました。この刑務所は日本に抵抗する人々を監禁するために使用され、最大収監数はなんと3,200名にのぼるそうです。説明には軍人による独裁政権時代に民主化運動勢力を監禁、拷問した事には一切触れていません。今、工事中ですが新しく建物を建てていただき、是非ともこの抜けている内容を展示して欲しいと思うのですが・・・。

多くの人々が収監され、出獄する時にはすでに息はなし…… 。そんな植民地時代の悲しき歴史が眠るこの歴史博物館の特徴は人形による実物大ジオラマです。また、体験も出来ます。身につまされる場面の連続で感情が麻痺してしまったようで、少し興奮ぎみに写真を撮ったり、体験してみたりしました。小学校の先生が生徒を連れ、詳しく説明をしているのを見かけました。子どもたちも真剣にその説明に聞き入っていました。それを横で同じように聞き入っていました。あまり良く理解出来ない韓国語なのに聞き入っていたの?って聞かれると「・・・・?」。
でもわかりやすい平易な言葉は意外と頭の中に入って来ていたと自分では思っています。




**戦争と女性の人権博物館とは**

「慰安婦」とされた女性たちの被害とたたかいの歴史を伝え、女性への暴力を根絶することを目指してつくられる博物館

日帝時代の匂いがする街 ・ 仁川/인천(インチョン)を旅して

日帝時代の匂いがする街 ・ 仁川/인천(インチョン)を旅して

わたしのルーツである本籍地に立つことが出来ました。祖父が生まれ、育ち、家庭を持ち、父が生まれたところ・・・。感無量でした。
レンガ造りの家が並ぶ町並みは韓国の他の地域とは一風違った趣があり、そこには異国の匂いがプンプンします。近所のおばさんたちに、同行してくれた人が「日本から来た人で、この辺りに祖父が住んでいたのでその場所を探してここに来たのだけれど当事のことを知っていますか?」という内容のことを質問すると近所のおばさんたちは「この辺りの建物は古くて70年くらいは経っているよ」と話してくれた。また、「この辺りは上も下も日本人がいっぱい住む日本人街だったよ」と教えてくれたのだけど、よくよく考えて見るとわたしのことを日本人と勘違いしているのだなぁという事に気がついた。もちろん彼女たちに-わたしは日本人でなく日本に住む在日の韓国人でですよ-と説明しようと思ったが彼女たちにとってそんな事はどうでもいいことだろうなぁと思ったので何も言わない事にしました。でもなんとなく疎外感を感じて寂しかったです。
ところで、この建物は古いというけれど祖父たちが住んでいた家ではないかもしれない・・・、という何とも漠然とした気持ちだけれどそう確信していました。父がここで生まれたのが約80年前、祖父がその前から住んでいたことを考えると近所のおばさんたちの記憶が曖昧であったとしても微妙なところかなぁと思う。それにレンガ造りの家に当時の貧乏な朝鮮人が住んでいたとは考えにくいのもこの建物で無いと思える一因でもあるのかなぁと思っています。
港町らしく、海と山に囲まれた街の風景は今わたしが住んでいる港町に良く似ています。
祖父たちが港町を住むところに選んだのは懐かしい故郷を感じられるところだったからなのだと感じました。 過去のまだ日本国の出来る前、朝鮮系の渡来人たちが日本の地で都を築いていった場所も朝鮮半島の故郷の風景に良く似た場所では無いかと言われています。韓国から来た友人も奈良の飛鳥に行った際に「自分の住む田舎の風景に良く似ている」としきりに話していたのを思い出します。
わたしも、-韓国に住むならこの街かなぁ-と漠然とした思いを抱きながら街を観光しました。



カトリックの沓洞/탑동(タプトン)聖堂、築様式は、ロマネスク様式とあります。
外観も中もとても綺麗で荘厳で圧倒されるような感じがしました。
ここは祖父が勉強したところです。朝鮮人であり、貧乏でしかも末っ子の祖父は当然のように学校には行けません。無料で学べるこの教会で祖父は木の枝で土に字を書いて英語・漢詩・日本語などを学びました。その後、この知識は解放後(1945年8月15日)の日本で祖国へ帰るための語学教室を開く素地になりました。탑동(タプトン)聖堂の事務所で「昔の事が知りたい」と話をするとこころよく、탑동(タプトン)聖堂の歴史をまとめた本を下さりました。いい記念品になりました。

港に面した低い丘(応峰山【ウンボン山/응봉산、82m】)の周りをさまざまな文化が取り巻いている事から、その頂上にある公園の事を昔は万国公園(1888年開園)と言っていたそうです。今は自由公園と名を改め(1957年9月)、アメリカの将軍ダグラス・マッカーサーの銅像が港を睥睨(へいげい)しています。(日帝強占下では”西公園”と言われていた)
アメリカの将軍ダグラス・マッカーサーの銅像がなぜここにあるのか?みなさんは知ってますでしょうか?銅像は“仁川上陸作戦”を記念して1957年9月に建立されました。その理由は、朝鮮戦争で南側が窮地に陥った時颯爽(さっそう)と現れて南側を救った救世主として崇めているのです。今でも彼は仁川の港を睥睨しながら北側の侵略を牽制しています。
南北の分断を決定した作戦“仁川上陸作戦”で誰が一番得をしたのか?少なくとも民衆は被害者であり受益者ではありません。アメリカの将軍ダグラス・マッカーサーに泣きついて国を売った李承晩(当時の大統領)とその政府、そして何よりも大きな恩を売り、韓国を手に入れたアメリカでは無いでしょうか?



日本統治下の匂いがプンプンします。今の中区庁舎は日本統治下に置かれた時の仁川府が租界(治外法権の区域)を管理していた仁川理事庁の建物を改築して使用しています。近年、これら開港地に由来する景観や近代化遺産の見直しにより、日帝時代の商社や銀行などが観光資源として整備されるようになり、中区庁舎を中心とする一角は日本の神戸にある異人館通りのような趣のある街として観光の名所となっています。
博物館(日帝時代の第一銀行仁川支店の建物)では1930年代の港のジオラマがあり、また感激してしまいました。父が生まれた当時の風景だからです。-この港から日本に向けて旅立つ時、祖父たちは何を思い、何に期待して旅立ったのだろうか・・・?-もう一度ゆっくりとその場所で物思いにふけってみたいものです。



続いて仁川/인천(インチョン)の街を観光、月尾島/월미도(ウォルミド) は入場料の要らないテーマパークのような所でした。
カップルで行くには最高の場所です。海岸は砂浜は無くゴツゴツとした岩ですが整備されていてゴミも無く清潔でしかも最高の夕日を拝む事が出来ました。目を海から陸に移すと韓国独特の色鮮やかな店舗が並び、その向こうからは賑やかな声が聞こえてきました。
たどり着いてみると遊園地の乗り物からの波のように押し寄せてくるその歓声とその様子を即興で盛り上げてるDJの何ともいえない口調、そして乗り物に乗ってない人たちをも巻き込んだその一帯が叫び声と歓声のもの凄い熱気に満たされていました。当然、屋台もありますがどちらかというと日本の縁日の屋台のように買い食い形式でいわゆる、布張馬車/포장마차(ポジャンマチャ)ではありません。

中華街での夕食、”燕京”という北京料理店でも味は韓国風でした。なんと北京料理なのに四川料理のように辛いのです。でも美味しかった!
韓国で中華料理といえば日本でも韓流ドラマでなじみの자장면(チャジャンミョン)も食べました。
正直、どんな高級中華料理店で食べようがこの味は庶民の味ですね。でもこの仁川の中華街が発祥の地なんですね。




**月尾島とは**

仁川港に浮かぶ島であったが日本統治期には陸続きとなり、1918年以降観光地として整備された。仁川上陸作戦で米軍の主要な上陸地となり、砲爆撃を受けて荒廃した。現在は埋め立てられて半島となり、月尾公園が造成されて観光特区として開発されている。
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**チャジャンミョンとは**

炸醤麺(ジャージャー麺、ジャージアンミエン)から派生した麺料理で、韓国式中華料理の一つ
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