2008年11月16日日曜日
「済州島四・三事件」の私
「済州島四・三事件」の私
講師:金時鐘さん(詩人)
神戸学生青年センター/朝鮮史セミナー
南北分断への反発と4・3事件の勃発
植民地からの解放後、北緯38度線の北側をソ連、南側を米軍が統治した。
北では抗日パルチザン出身の金日成が親ソ政権を、南では独立運動出身の李承晩が親米政権を立てる。
南北分断を避けようとする様々な運動が起きていた。
1947年3月1日、済州島で「3・1独立運動」の記念式典の後、参加者らがそのまま南北分断に反対する
デモを始めた。
このデモ隊に、陸地(韓国本土)から派遣されていた米軍政下の警察隊が発砲。十数人の死者が出た。
警察隊には「済州島はアカの島」という偏見があり、済州警察への不信感もあった。
このとき警察が、陸地での過剰な左翼運動取締りを済州島にも持ち込んだ。
この日が4・3事件の始まりとされている。
3・1虐殺に反発する済州島の官公庁・企業は一斉にゼネストに入り、米軍政はこれを徹底弾圧。
2000人の検挙者を出した。この頃から、北朝鮮から逃げてきた右翼たちで構成する「西北青年団」などの
極右・反共集団が済州島に入り始めた。彼らは法的拘束を持たず残虐非道なアカ狩りを始めた。
一方、アメリカの影響下にある国連は全朝鮮での選挙実施を決めるが北側はこれを拒否。
南朝鮮での単独選挙実施となり、南北分断は避けられない事態となった。
南朝鮮労働党など3・1事件で過激化した済州島の左派グループはこの選挙への反対活動を始める。
4・3蜂起と焦土化作戦
1948年4月3日、選挙無効などを叫ぶ武装隊が蜂起し、警察署などを襲う。
米軍政下の陸地から来た警察や西北青年団など右翼団体は、これを弾圧。抗争が始まった。
軍警は武装隊に関与する住民も虐殺していった。
村々は、昼は軍警、夜はパルチザンに支配される状況となり、抗争は住民を巻き込んで複雑化していった。
結局、5月10日の南側単独選挙は済州島だけで無効選挙となった。
李承晩は、済州島を焼き払えと命じたとされる。
同年8月15日に大韓民国が成立する。
しかし創設された韓国軍は米軍の指揮下にあった。
韓国軍は済州島の焦土化作戦を決行、敵性地区とされた中山間部の村々を焼き、年寄り、女性、子どもも見境いなく殺戮していった。
難を逃れて山に入った人も、武装隊と見なされて殺され、成年男子の多くも連行され殺された。
金時鐘先生の体験談に心が振るえ目頭が熱くなりました。貴重な話しありがとうございました。
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