2008年9月25日木曜日

京都・ウトロ地区フィールドワーク


2008年 在日研究フォーラム フィールドワーク

   -----ウトロ地区の今、そして今後-----

      2008年9月15日 日曜日

■ ウトロ地区の起源
第二次世界大戦中、京都飛行場と併設する飛行機工場建設工事が行なわれた。建設工事を請け負ったのは日本国際航空工業であった。工事には約2000名が従事し、その内の約1300名が朝鮮人であり、彼等とその家族が生活していた飯場(宿泊設備)が現在のウトロ地区の前身である。

ウトロ地区住民は、1944年9月から1945年3月まで間、朝鮮半島にも適用(女性は対象外)された日本政府の国民徴用令により来日した朝鮮人徴用労務者とその子孫であるという見方があり、また、韓国側が当時の徴用を強制連行と同一視しているため、それらを根拠として、「日本が強制連行したウトロ地区住民の問題は日本が解決すべき」との主張が繰り広げられたこともあった。

しかし、ウトロ地区住民の作る「ウトロ国際対策会議」などによると日本国際航空工業の1300人の朝鮮人労働者達は、ほとんどが国民徴用令により来日した訳ではなく、経済的理由などで移住してきたものであるとしている。また、韓国の国務総理傘下の「日帝強占下での強制動員被害者の真相究明委員会」も、2006年末の報告書で、ウトロ地区住民について、「強制徴用者ではなく、元から日本に居住していた朝鮮人がほとんど」と明らかにしている。つまりウトロ地区は、強制徴用以前から日本に居住していた朝鮮人を基盤とし、これに1930年代末に日本の植民地時代の貧困層の朝鮮人や被徴用者が加わって形成されたものである。

 参加されたみなさま、お疲れ様でした。そして案内してくださった斎藤さんとウトロ地区のみなさまありがとうございました。お散歩中快くお話いただいてお茶摘労働をしていた時の話しを聞かせてもらったり、またお花に水をやっていた人からはム(どんぐりをすりつぶして作る豆腐に似た食べ物)の作り方を聞いたりしました。そして休憩で入ったエルファの集会場には黄順禮(ファン・スネ)さんに来て頂きこどもの頃の話しや闘いの中でのエピソードなどを聞かせてもらいました。午後4時には終了する予定のフィールドワークは午後5時ようやく後半のフィールドワークが開始され、そのまま帰路に着くことになったが、この時間では鼻塚(耳塚)に行っても照明のないところなので残念ながら今回は断念することになった。でも内容のあるフィールドワークでした。
kyotoUtoro - 京都ウトロのメモ


0 件のコメント: