2009年11月1日日曜日

DMZ ・ 도라산(都羅山)と西大門刑務所歴史館

DMZ ・ 도라산(都羅山)と西大門刑務所歴史館



統一展望台は한강(漢江) と임진간(臨津江)が合流する所に位置し、その眺めは壮大でまさに南北がひとつになる場所、統一にふさわしい場所にこの統一展望台があるのだと感じました。개성(開城)の街は望遠鏡で見れば直ぐ近くに見え、互いを繋ぐ一筋の希望がそこにある。そんな風景に感動してました。展示場には共和国の暮らしぶりが紹介されてたりします。また。韓国の歴代大統領や著名人の統一への願いを書いた色紙があったり、南北共同宣言の実物模写(実物ではないと思う)があったりしました。



そして統一といえばこの曲♪임진간(臨津江)♪がBGMで流れていました。看板には南北の歌詞(南北で若干歌詞が違う)、フルコーラス分の歌詞が書かれていました。通常耳にするのは一番だけなので二番の歌詞が確認出来た事はラッキーでした。♪임진간(臨津江)♪は韓国ではあまり知られていないというイメージだったのですがこういう所に来れば聞けるのだということがわかりました。また、最近の韓国ではこの♪임진간(臨津江)♪は映画「パッチギ」で韓国でも有名になっているとか・・・。日本の韓流は逆流して在日の文化が韓国に浸透して来ている事を実感しました。

경의선(京義線)に乗って서울(ソウル)から평양(平壤)までという노레페우리나라(ウリナラ)の歌詞のほんの一部、임진간역(臨津江駅)から 도라산역(都羅山駅)までのたったの一駅、約五分、が今日の旅の一番のひと時でした。この先に개성(開城)そして평양(平壤)が繋がっていると思うと胸が締め付けられる思いでした。行くに行けない寂しさをこの도라산역(都羅山駅)とアリラン峠と重ねて思い浮かんだのが노레페우리나라の”6.15 아리랑(6.15アリラン)”という歌でした。この歌のように遠くない未来、自由に경의선(京義線)に乗って行き来出来るその時にはみんなで行きましょう!개성(開城)へそして평양(平壤)へ。。

도라산역(都羅山駅)からはバスで第三トンネルと도라전망대(都羅展望台)をめぐり、平和村の中にある「自由食堂」で昼食をする事に된장찌개(テンジャンチゲ)や豆腐や불고기(焼肉)を頼み、みんなで食べていると時間が来たので直ぐにバスに戻るようにと言われ、あわただしく少し料理を残したまま食堂を後にし、도라산역(都羅山駅)へと戻っていった。もう少しゆっくりと食事がしたかったのに完全に監視された中ではそんな自由はない?・・・。





ソウルに戻ってきて西大門刑務所歴史館の駐車場に車を停めた目の前の一段高い位置にあるそう大きくはない一角のトイレのある場所が”戦争と女性の人権博物館”が建つ予定の場所だと教えてもらいました。
起工式が済んでいるにも関わらずまだ、トイレはそのまま使用できる状態でした。
西大門独立公園内は駐車所や서대문 형무소역사관 (西大門刑務所歴史館)が工事中なので順番待ちなのかそれとも独立運動関連団体の圧力で遅れているのか真意のほどはわかりません。

서대문 형무소 (西大門刑務所)は日本植民地時代に先駆けて、1908年、日本によって建てられました。この刑務所は日本に抵抗する人々を監禁するために使用され、最大収監数はなんと3,200名にのぼるそうです。説明には軍人による独裁政権時代に民主化運動勢力を監禁、拷問した事には一切触れていません。今、工事中ですが新しく建物を建てていただき、是非ともこの抜けている内容を展示して欲しいと思うのですが・・・。

多くの人々が収監され、出獄する時にはすでに息はなし…… 。そんな植民地時代の悲しき歴史が眠るこの歴史博物館の特徴は人形による実物大ジオラマです。また、体験も出来ます。身につまされる場面の連続で感情が麻痺してしまったようで、少し興奮ぎみに写真を撮ったり、体験してみたりしました。小学校の先生が生徒を連れ、詳しく説明をしているのを見かけました。子どもたちも真剣にその説明に聞き入っていました。それを横で同じように聞き入っていました。あまり良く理解出来ない韓国語なのに聞き入っていたの?って聞かれると「・・・・?」。
でもわかりやすい平易な言葉は意外と頭の中に入って来ていたと自分では思っています。




**戦争と女性の人権博物館とは**

「慰安婦」とされた女性たちの被害とたたかいの歴史を伝え、女性への暴力を根絶することを目指してつくられる博物館

日帝時代の匂いがする街 ・ 仁川/인천(インチョン)を旅して

日帝時代の匂いがする街 ・ 仁川/인천(インチョン)を旅して

わたしのルーツである本籍地に立つことが出来ました。祖父が生まれ、育ち、家庭を持ち、父が生まれたところ・・・。感無量でした。
レンガ造りの家が並ぶ町並みは韓国の他の地域とは一風違った趣があり、そこには異国の匂いがプンプンします。近所のおばさんたちに、同行してくれた人が「日本から来た人で、この辺りに祖父が住んでいたのでその場所を探してここに来たのだけれど当事のことを知っていますか?」という内容のことを質問すると近所のおばさんたちは「この辺りの建物は古くて70年くらいは経っているよ」と話してくれた。また、「この辺りは上も下も日本人がいっぱい住む日本人街だったよ」と教えてくれたのだけど、よくよく考えて見るとわたしのことを日本人と勘違いしているのだなぁという事に気がついた。もちろん彼女たちに-わたしは日本人でなく日本に住む在日の韓国人でですよ-と説明しようと思ったが彼女たちにとってそんな事はどうでもいいことだろうなぁと思ったので何も言わない事にしました。でもなんとなく疎外感を感じて寂しかったです。
ところで、この建物は古いというけれど祖父たちが住んでいた家ではないかもしれない・・・、という何とも漠然とした気持ちだけれどそう確信していました。父がここで生まれたのが約80年前、祖父がその前から住んでいたことを考えると近所のおばさんたちの記憶が曖昧であったとしても微妙なところかなぁと思う。それにレンガ造りの家に当時の貧乏な朝鮮人が住んでいたとは考えにくいのもこの建物で無いと思える一因でもあるのかなぁと思っています。
港町らしく、海と山に囲まれた街の風景は今わたしが住んでいる港町に良く似ています。
祖父たちが港町を住むところに選んだのは懐かしい故郷を感じられるところだったからなのだと感じました。 過去のまだ日本国の出来る前、朝鮮系の渡来人たちが日本の地で都を築いていった場所も朝鮮半島の故郷の風景に良く似た場所では無いかと言われています。韓国から来た友人も奈良の飛鳥に行った際に「自分の住む田舎の風景に良く似ている」としきりに話していたのを思い出します。
わたしも、-韓国に住むならこの街かなぁ-と漠然とした思いを抱きながら街を観光しました。



カトリックの沓洞/탑동(タプトン)聖堂、築様式は、ロマネスク様式とあります。
外観も中もとても綺麗で荘厳で圧倒されるような感じがしました。
ここは祖父が勉強したところです。朝鮮人であり、貧乏でしかも末っ子の祖父は当然のように学校には行けません。無料で学べるこの教会で祖父は木の枝で土に字を書いて英語・漢詩・日本語などを学びました。その後、この知識は解放後(1945年8月15日)の日本で祖国へ帰るための語学教室を開く素地になりました。탑동(タプトン)聖堂の事務所で「昔の事が知りたい」と話をするとこころよく、탑동(タプトン)聖堂の歴史をまとめた本を下さりました。いい記念品になりました。

港に面した低い丘(応峰山【ウンボン山/응봉산、82m】)の周りをさまざまな文化が取り巻いている事から、その頂上にある公園の事を昔は万国公園(1888年開園)と言っていたそうです。今は自由公園と名を改め(1957年9月)、アメリカの将軍ダグラス・マッカーサーの銅像が港を睥睨(へいげい)しています。(日帝強占下では”西公園”と言われていた)
アメリカの将軍ダグラス・マッカーサーの銅像がなぜここにあるのか?みなさんは知ってますでしょうか?銅像は“仁川上陸作戦”を記念して1957年9月に建立されました。その理由は、朝鮮戦争で南側が窮地に陥った時颯爽(さっそう)と現れて南側を救った救世主として崇めているのです。今でも彼は仁川の港を睥睨しながら北側の侵略を牽制しています。
南北の分断を決定した作戦“仁川上陸作戦”で誰が一番得をしたのか?少なくとも民衆は被害者であり受益者ではありません。アメリカの将軍ダグラス・マッカーサーに泣きついて国を売った李承晩(当時の大統領)とその政府、そして何よりも大きな恩を売り、韓国を手に入れたアメリカでは無いでしょうか?



日本統治下の匂いがプンプンします。今の中区庁舎は日本統治下に置かれた時の仁川府が租界(治外法権の区域)を管理していた仁川理事庁の建物を改築して使用しています。近年、これら開港地に由来する景観や近代化遺産の見直しにより、日帝時代の商社や銀行などが観光資源として整備されるようになり、中区庁舎を中心とする一角は日本の神戸にある異人館通りのような趣のある街として観光の名所となっています。
博物館(日帝時代の第一銀行仁川支店の建物)では1930年代の港のジオラマがあり、また感激してしまいました。父が生まれた当時の風景だからです。-この港から日本に向けて旅立つ時、祖父たちは何を思い、何に期待して旅立ったのだろうか・・・?-もう一度ゆっくりとその場所で物思いにふけってみたいものです。



続いて仁川/인천(インチョン)の街を観光、月尾島/월미도(ウォルミド) は入場料の要らないテーマパークのような所でした。
カップルで行くには最高の場所です。海岸は砂浜は無くゴツゴツとした岩ですが整備されていてゴミも無く清潔でしかも最高の夕日を拝む事が出来ました。目を海から陸に移すと韓国独特の色鮮やかな店舗が並び、その向こうからは賑やかな声が聞こえてきました。
たどり着いてみると遊園地の乗り物からの波のように押し寄せてくるその歓声とその様子を即興で盛り上げてるDJの何ともいえない口調、そして乗り物に乗ってない人たちをも巻き込んだその一帯が叫び声と歓声のもの凄い熱気に満たされていました。当然、屋台もありますがどちらかというと日本の縁日の屋台のように買い食い形式でいわゆる、布張馬車/포장마차(ポジャンマチャ)ではありません。

中華街での夕食、”燕京”という北京料理店でも味は韓国風でした。なんと北京料理なのに四川料理のように辛いのです。でも美味しかった!
韓国で中華料理といえば日本でも韓流ドラマでなじみの자장면(チャジャンミョン)も食べました。
正直、どんな高級中華料理店で食べようがこの味は庶民の味ですね。でもこの仁川の中華街が発祥の地なんですね。




**月尾島とは**

仁川港に浮かぶ島であったが日本統治期には陸続きとなり、1918年以降観光地として整備された。仁川上陸作戦で米軍の主要な上陸地となり、砲爆撃を受けて荒廃した。現在は埋め立てられて半島となり、月尾公園が造成されて観光特区として開発されている。
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 


**チャジャンミョンとは**

炸醤麺(ジャージャー麺、ジャージアンミエン)から派生した麺料理で、韓国式中華料理の一つ
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

2009年8月18日火曜日

鉄原DMZ-その2 スンイル橋



鉄原DMZ-その2 スンイル橋

わたしたちが次に向かったのが“スンイル橋”です。漢灘江(ハンタンガン)の中流地点に架っている高さ 35m、長さ120m、幅6mの橋です。隣接する公園には説明の看板等があり、河川敷まで下ると楼閣があり、新・旧の橋を間から眺める事が出来ます。ちなみに新しい方の橋の橋脚に兵士がいて漢灘江(ハンタンガン)を眺めていたように見えたが実は歩哨なのかも知れないなぁ・・・と感じました。確かめる事は出来ないがただぶらりとやって来たのではないでしょ・・・?。
李時雨(イ・シウ)さんの説明を聞きながら、どちらも軍事目的とはいえ偶然にもちょうど真中で南北が繋がったこの橋を眺めながら渡って見たいなぁ・・・という衝動に駆られました。説明が終わり駐車場へ向かう途中、ふと振り返ると橋への道は閉鎖されておらず行ける事がわかったので案内の李時雨(イ・シウ)さんに渡れるのか聞いてみると簡単に『いいですよ、行きましょうか?』という。少し拍子抜けがしたがみんなで早速、橋を渡り始めました。橋の袂には円筒形のコンクリートで作られた見張り番所がある。そのまま進んで橋の中央まで来て、その境目を挟み、みんなで握手しその姿を記念写真におさめました。本物の境界線を跨ぐ事は出来ないけれどこの橋では跨いで記念写真を撮れます。最高の記念写真スポットです。

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“スンイル橋”
現在、東松邑と葛末邑の境界で漢灘江(ハンタンガン)の中流地点に架っている高さ 35m、長さ120m、幅6mの橋です。
共産治下の1948年8月から、この道路を軍事要塞として活用しようと鉄原及び金化地域の住民たちを5日間交代制で「労力工作隊」という名目の下で動員し長興里側から工事をしていた所、橋の半分ほどを推進した状態で朝鮮戦争により工事が中断されました。
戦後、韓国政府で少々異った特色の工法により残りの区間(橋の半分の東側)の工事を行い、1958年12月3日に竣工して「スンイル橋」と命名されました。
スンイル橋の名前に関しては2種類の説が伝わっています。
ひとつは南北の合作で完成した橋なので、李承晩(イ・スンマン)大統領の「承」の字と金日成(キム・イルソン)の「日」の字を合わせて「承日橋」としたと言い、もうひとつは軍部で主張する「昇日橋」ですが、これは朝鮮戦争の当時に漢灘江を渡り北進中に戦死した故・朴昇日(パク・スンイル)を称えるために命名したという話があります。
1999年8月11日にスンイル橋のすぐ横の南側に、現代式の工法によるアーチ型の鉄条構造の橋梁を開設し「漢灘(ハンタン)大橋」と命名しました。
従来のソンイル橋は登録文化財第26号(2002.5.27)に指定・管理され、現在は通行が禁止されています。
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2009年8月3日月曜日

鉄原DMZ-その1 朝鮮労働党舎












バスは北緯38度線を越えた。
朝鮮戦争でかつての朝鮮民主主義人民共和国は今では韓国の非武装地帯(DMZ/Demilitarized zone)の街である。鉄原は“安保観光”として有名で反北韓(朝鮮民主主義人民共和国)・反共教育に使われている。
朝鮮戦争休戦から半世紀以上が経った今でも情報戦は続けられている。この“安保観光”も立派な情報戦の作戦の一部です。わたしたちが最初に向かったのは“朝鮮労働党舎”です。崩れ落ちないように補強されており、北韓(朝鮮民主主義人民共和国)への敵対心を煽る文章が大きな看板に書かれている。“安保観光”であればこの看板の文章が印刷されたパンフレットを渡されたのだろうか?しかも、日本語で書かれたパンフレットを・・・?。
幸いこのツアーではそんなパンフレットは存在しないのでその存在を残念ながら確認できない。
このツアーの案内人はあの有名な韓国のフォトジャーナリスト李時雨(イ・シウ)さんです。
“朝鮮労働党舎”の説明文の内容について、全くのウソであると李時雨(イ・シウ)さんは言います。
この場所は開放を喜ぶ住民たちと朝鮮労働党の指導者たちとが協力して先ず集まれる場所である広場を作り、この建物も造ったのではのではないか、なぜならば日帝から開放されて大手を振って道の真ん中を歩ける喜びを享受していたであろうこの時期になぜに朝鮮労働党が住民を迫害しなければいけなかったのかの説明がつかない・・・という。
では、この“朝鮮労働党舎”の説明文は李時雨(イ・シウ)さんのいう通り全くのウソであるといえるのか?・・・わたしは、これを聞いて少し穿った見方をすればこの文章は共産独裁政権の部分を韓国右翼勢力に置き換えればそれが事実になるような気がした。

また、李時雨(イ・シウ)さんはこの建物から近代的でリベラル(社会自由主義(英:Social liberalism))な関係が見えてくるという。2階には委員長の部屋が向かって右にあり、委員長室の前を通り3階の講堂へ行くような構造になっているという。今でも韓国では儒教色の強い国ですから、このような権力者の前を庶民がぞろぞろと歩くような構造は今の韓国でもためらいがあるのではないかと・・・。
わたしは元来、ひねくれ者なので、李時雨(イ・シウ)さんに次のような質問というか意見をぶつけて見た。
『わたしが見ると、委員長の部屋の位置と青年会の部屋の位置が封建的な位置関係に見えてくるのだが・・・。その訳は、儒教的な位置関係で向かって右が高位で左が下位であることから、向かって右にある委員長室、向かって左にある青年会の部屋、これはリベラルな思想とは関係ない無意識が成せる選択ではないだろうか?』。李時雨(イ・シウ)さんはこれに『可能性がないわけではないと思います。』と年上のわたしに丁寧に答えてくれた。彼もリベラルな思想とは関係ない無意識が働いたのであろうか?いや、彼は韓国人であるから、彼にとっては当然の事であったといえます。


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■ 李時雨(イ・シウ)さんとは・・・。 (JanJanNews 国家保安法に立ち向かうジャーナリスト・李時雨角 南圭祐 007/12/05より抜粋 )
韓国のフォトジャーナリスト李時雨さんは劣化ウラン弾の報道をしたことで国家保安法違反に問われ、2007年4月19日から5カ月間拘束された。裁判で、検察側は米軍からの圧力もあって死刑を求刑。弁護側は李時雨さんの無罪を訴えるだけでなく、国家保安法の違憲性も訴えている。司法当局によると、李さんは駐韓米軍の化学兵器や劣化ウラン弾の配備状況など、米軍兵器と軍事基地情報を報道し、反国家団体である朝鮮総連などに流出させたとして国家保安法第5条(自発的反国家団体支援など)と軍事機密保護法違反の疑いで拘束された。しかし、これらの情報は、既にアメリカで情報公開法によって公開されインターネット上でも閲覧出来ていたものだった。国家保安法自体も、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権は廃止を公約している(実現されなかった)し、今年10月の南北首脳会談でも南側が廃止を示唆した。 前時代的な法律として認識されており、軍事独裁政権時代の残滓だ。このため李さんの拘束には国際的にジャーナリスト・平和団体から抗議の声が上がった。

■ “朝鮮労働党舎”の説明文
公式サイトより・・・。
この建物は、解放後に北朝鮮が共産独裁政権の強化と住民の統制を目的に建立し、朝鮮戦争前まで使用した北朝鮮労働党の鉄原郡党舎で、悪名を轟かせた所です。 共産治下の5年間、北朝鮮はここで鉄原、金化、平康、抱川の一帯を管掌しながら 良民収奪と愛国人士たちの逮捕、拷問、虐殺などの身の毛がよだつような蛮行を数多く行い、1度ここに連れてこられると死体または死体当然にならなければ出れないほど無慈悲な殺戮(さつりく)を行った所です。この建物の裏の防空壕からは、多くの人骨と共に蛮行に使用した数多くの実弾と針金などが発見されました。近代文化遺産登録文化財第22号に指定・管理されています。

■ 文化と沿革北緯38度/東経127度にある江原道・鉄原を公式サイトの日本語ページより紹介します。
http://www.cwg.go.kr/cheorwon/Foreign_Language/jap/main.asp鉄原郡は、高句麗時代には鉄原または毛乙冬非と呼ばれた。新羅時代の景徳王の時には鉄城と呼ばれ、その後、弓裔が兵を起して西暦901年に国を建て、道邑を楓川院(現在の鉄原郡北面洪元里)と定め、国号を摩震、年号を武泰から聖冊とし、その後、水德万歳、政開と定めて18年間統治し、西暦911年に国号を泰封と改称した。高麗時代の太祖の時(918年)、鉄原と改称した後に東州に改名した。成宗14年(995年)乙未に団練使を置き、穆宗8年(1005年)乙未に団練使を廃止し、顕宗9年(1018年)戊申に知東州事を置いた。高宗41年(1254年)甲寅に県令により降等したが、後に牧となった。そして忠宣王2年(1310年)庚戌年に再び鉄原府となった。李朝・太宗13年癸巳に朝鮮朝の通例により都護府となった。世宗26年(1434年)に京畿道から江原道に移管され、英祖22年(1747年)に春川から鎮管の都護府を移設し3府6県を管轄した。
高宗32年(西暦1895年)5月26日の現勅令第98号により春川府鉄原郡となり、1869年8月4日の勅令第36号により江原道鉄原郡となり、東辺、葛末、西辺、新西、松内、寬仁、北面、漁隠洞、畝長などの9面を管轄していたが、1914年3月1日の郡面の廃合により京畿道朔寧郡の乃門、寅目、馬場などの3つの面が鉄原郡に併合され、西辺、東松、葛末、漁隠、北面、新西、畝長、乃門、寅目、馬場の10面に改編され、西暦1931年4月1日の府令第103号により西辺面(鉄原面)が邑に昇格した。西暦1945年8月15日の日帝からの解放と同時に北緯38度線を境界として南北に分断され、鉄原郡の全域が共産治下に入ったが、朝鮮戦争以降に国軍の北進により一部の地域が修復され、西暦1963年1月1日の法律第1178号により旧金化郡の中の8つの邑面(金化、西面、近北、近東、近南、遠東、遠南、任南)が鉄原郡に編入され、新西面が京畿道漣川郡に編入された。西暦1972年12月28日の法律第2395号により前鉄原郡北面楡井里、洪元里と乃文面篤検里を鉄原邑に、前平康郡南面亭淵里が葛末面に編入された。西暦1973年7月1日の大統領令第9409号により鉄原郡西面清陽里と道昌里が金化邑に編入され、1979年5月1日の大統領令第9409号により葛末面が邑に、1980年の大統領令第10050号により東松面が邑に昇格して4邑7面で今日に至っている。
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2009年7月25日土曜日

水曜デモinソウル


水曜デモinソウル

2009年7月22日(水) 第875回水曜集会 「劇団水曜日」主幹 演劇<セナの願い>公演 30分
在日同胞の女学生セナが、在日朝鮮人差別と「慰安婦」問題に怒りを感じて、解決していく過程を描いた演劇。

事前の雨の予報は見事に外れ、天気は晴れ。
蒸し暑い中、挺身隊問題対策協議会が主催する875回水曜集会は正午キッカリに始まった。
事務局長の挨拶から始まり、いよいよ「劇団水曜日」が紹介され、主人公のセナが子どもたちにいじめられるシーンから始まった。
日本では今でも朝鮮人(在日コリアン)に対する差別意識は根強くその差別意識は残念なことに子どもたちの意識の中にも居座り続けている。そんな現実とハルモニたちの受けた屈辱の体験は半世紀以上経つ現在と繋がっている。

100年前の呪縛を解くことは出来るのか?
2009年5月23日、韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)노무현前大統領が惜しくも急逝されたことはとても残念で心が痛む。
この場を借りて哀悼の意を表明します。
その盧武鉉前大統領の進めてきた政策は過去の植民地時代から軍事政権期にいたる全ての事案に適用して真相究明や責任の追及、補償を行うための過去史基本法(真実・和解のための過去史整理基本法)を成立させた事でもわかるように、この取り組みこそ“100年前の呪縛を解くこと”のためには避けては通れないことであったと思っている。“臭いものには蓋をする”的対応では何も解決しないことは誰でもわかる事と思っていたが、実はわからないのではなく、うやむやにして無かった事にしようという事であった。この傾向は日本だけでなく当の韓国人にもあり、今はそういった勢力が強くなっている。盧武鉉前大統領にはまだまだ生きていてもらって“真実・和解のための過去史整理基本法”履行のために先頭に立って闘ってほしかった。重ね重ね残念でならない。

さて、演劇に戻るとしよう。
劇は導入部の重苦しい雰囲気とは一変し、コミカルなミュージカル仕立てに・・・。
観劇していたハルモニを始め、多くの観客は突然の変貌に面食らい、目を白黒させながらも、湧き出る笑いがどよめいていた。
コミカルな動きとは裏腹に歌詞は ♪ どうして どう~して! 誰のものでもない地球・・・中略・・・愛と正義が平和をつくる みんなのものだよ この地球 ♪ と、しっかりとメッセージが込められていた。
続いて、右傾化する日本の今の現状がますます差別を助長させていることをそして戦争が「慰安婦」問題を今後も引き起こす原因であるある事を受けて、コミカルな踊りに乗せ、その裏で糸引くアメリカの存在を痛烈に批判していた。

ハルモニの体験を歌にし、「慰安婦」問題を訴えた。今までの興奮は一変、また重苦しい雰囲気が漂う。胸つまらせ、息苦しいほどの生々しい証言。
そしてハルモニは「二度とこんなことを繰り返させないために、みなさんに真実を知ってもらいたいと、わたしは今日ここに来ました。わたしが今日まで生きて来たのは、みなさんにこのことをお話しするためだったんだと思います。どうか、日本に住んでいる皆さんが、日本政府を動かしてください。」と日本の支援者に期待した。

日本で活動の成果が見えはじめた・・・。
そのキッカケが[宝塚市議会での日本軍「慰安婦」問題の解決を求める意見書可決]でした。
その後、各地での[意見書可決]の朗報が次々ともたらされたことを紹介。取り組み中の活動も紹介と続き、みんなでシュプレヒコールをした。

最後に♪アリランのメロディにあわせて全員で踊り、最後は全員手をつないで一列になり、お辞儀をして演劇は終演した。途中、ハルモニが感激して踊りに参加。大いに盛り上がった。


最後に報道された内容を下記に添付します。
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[京郷新聞 2009-07-22 18:27]

「慰安婦の真実の伝播、放棄しない」

日本の劇団、挺対協の水曜集会で韓国語の演劇

写真
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=032&aid=0002021151

写真 ▲ 日本の有名な「劇団水曜日」が、22日ソウル鍾路区の駐韓日本大使館前で開かれた従軍慰安婦[被害]ハルモニ水曜集会で公演している。(金キナム記者)


22 日昼12時、ソウルの鍾路区中学洞の駐韓日本大使館の前。ポリスラインの前に、空色の布で簡易演劇舞台が設けられた。劇が始まると、俳優5名が一人の女性 に向かって、「帰れ、朝鮮に帰れ」と叫んだ。黒い色のスカートと白いチョゴリを身につけた女性は、しくしく泣きながら、「アリラン」を歌った。

日本の「劇団水曜日」が、この日挺身隊問題対策協議会が主催した875回水曜集会の現場で、演劇<セナの願い>を公演した。在日同胞の女学生セナが、在日朝鮮人差別と「慰安婦」問題に怒りを感じて、解決していく過程を描いた演劇だ。

俳 優たちの韓国語は未熟だったが、演技は真剣だった。路上演劇は、30分余り行われ、俳優15名の額には汗の雫が溜まった。俳優たちは、演劇の最後に皆舞台 に出てきて、「金学順(キム・ハクスン)、裴奉奇(ペ・ポンギ)、姜徳景(カン・ドッキョン)…李順德(イ・スンドク)」と叫んだ。従軍「慰安婦」被害] ハルモニ31人の名前だ。

観客は、「慰安婦」[被害]ハルモニたちだった。車椅子に座ったハルモニたちは、真剣に演劇を観覧した。舞台からアリランが流れてくると、静かに歌いもした。

「 劇団 水曜日」は、2004年日本の兵庫県宝塚市で韓国伝統舞踊を公演した朝鮮高等学校の女学生たちに、一人の日本の女性が「朝鮮に帰れ」という差別的暴言をした事件を契機に創立された。

劇団の名前も水曜集会から取った。徳田幸博団長(66)は、「二月間猛練習して、今日の舞台に立った」、「韓国語を全く知らない俳優が半分ぐらいになるのに、皆熱心にセリフを覚えた」と語った。

劇団側は、公演後に発表した声明書を通して、「日本の地で、一人りでも多くの人たちに真実を伝えるよう、あきらめないで闘う」と明らかにした。彼らは、日本市民が集めた寄付約31万円(400万ウォン余り)を挺対協に伝達した。 
(カン・ビョン ハン記者)

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[聯合ニュース 2009-07-22 14:24]

第875回水曜デモ

(ソウル=聯合ニュース) 朴ジホ記者= 22日の午後、ソウルの中学洞の日本大使館前で開かれた「日本軍『慰安婦』問題解決のための第875回水曜デモ」で、ハルモニたちが日本からきた劇団水曜日の公演を見守っている。

写真
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=001&aid=0002776351

http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=001&aid=0002776354

http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=001&aid=0002776360
(日本からきた「劇団 水曜日」の団員たちが、日本の謝罪を要求するスローガンを叫んでいる。)

http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=001&aid=0002776361

2009年6月22日月曜日

神戸在日コリアン保護者の会 第19回オープンセミナー

神戸在日コリアン保護者の会 第19回オープンセミナー

それぞれの保護者会活動をふりかえって~奈良・大阪・神戸からの報告

1990年代に入り、関西を中心に各地で在日コリアンの親たちによる<保護者会>が相次いで結成されました。
神戸でも当時の神楽小学校の教室を借り、わずかな親とその子たちだけの小さな集まりでしたが、子どもの成長、将来、学校への不安、悩みなどを「在日」としての自身を振り返りながら、親として何ができるのか、誰に話しをし、どうすればよりよい教育環境を作ってやることができるのかなど、それぞれが思いいっぱいで語り合ったことが今でも鮮やかに思い出されます。あれから20年近くが経ちました。すべきこと、したいことの多さと困難に非力を実感したことは数え切れないほどありますが、この間、各地の保護者たちの取り組みは、互いを励まし地域を越えた交流につながり、また多くの先生方との出会いのなかで、現場での教育実践や教育施策へと実を結んでいくなど、たくさんの成果を生み出してきました。そしていま。私たちは、世代交代のなかでの在日コリアンのいっそうの<多様化>と、在日外国人の急増に伴う日本社会の多民族多文化化の急速な進展などを背景に、新たに様々な課題に直面しています。

今回のセミナーは、それぞれの地域で保護者たちが取り組んできたことを改めて振り返りながら、現状と課題を率直に語り合い、また各地から来た子どもたちにとっても相互の交流・仲間作りの場になればと願っています。

(1部)各地からの報告…奈良・在日外国人保護者の会
              同胞保護者連絡会(大阪)
              神戸在日コリアン保護者の会
 (2部)フリートーク…… 在日外国人保護者から
              学校現場から
               民族教育の現場から
(子ども交流会~作って食べようコリアン料理)
…セミナーと同時進行で子ども交流会をします。料理実習&交流ゲームなどです。
持ってくるもの…エプロンなど
参加費無料です。

○日時:2009年6月21日(日)午後1時半~(開場・受付午後1時~)
○会場:神戸市立長田南小学校
(JR又は地下鉄の新長田駅を東へ約900m、あるいは高速長田駅を南西へ約900m)
○資料代:300円
□主催:神戸在日コリアン保護者の会
□共催:コリア教育文化センター
□お問い合わせ先:コリア教育文化センター:
korea_uriecc@ybb.ne.jp
   神戸市長田区北町1-45 小西ビル202 TEL/FAX 078-521-3855又は 090-3671-1370


20年近い年月は産まれたばかりの子が成人する年月です。
この間、何が変わり、何が変わらなかったのかそして今後についてそれぞれの団体の活動を振り返りながらの発表となりました。
特別永住権を持つ在日コリアンのこどもたちの親たちが『子どもの成長、将来、学校への不安、悩みなどを「在日」としての自身を振り返りながら、親として何ができるのか、誰に話しをし、どうすればよりよい教育環境を作ってやることができるのか・・・』などの思いから始まった各地の保護者の会の現状は奈良の橿原オリニ会の紙芝居の中にも出てきました。それは単なる在日(特別永住権を持つ在日コリアン)のこどもたちだけでなく父親または母親どちらか片方がが日本人または韓国人(朝鮮人)のダブル(以前はハーフと表現されてた)。在日の中にもオールドカマー(特別永住権を持つ在日コリアン)とニューカマー(最近、日本に来た人)の違いがあったり、ウリハッキョ(朝鮮学校)出身者や日本の学校だけで教育を受けた人と多種多様で、しかも、コリアンだけでなくヴェトナムの人たちもクローズアップされて来てます。

親の持つルーツのアイデンティティーもさまざまで親自身が“ダブル”であったり“ミックス”であったりと多様化していてその子たちが複数あるルーツのアイデンティティーをどう捕らえて、どう今後生きて行くのか?そしてどのような意味があるのかは親も子も予測のつくものではないと思う。では、親として何をこどもたちに与え、育むのか?ここに集う保護者のみなさんはそれに対する判断をされたみなさんであり、少なくとも20年近く活動し、成果を残して来られました。
わたしはその事に敬意を表したいと思います。
それでは何がどう変わって来たのでしょうか?
神戸の場合、最初は韓国・朝鮮籍のこどもたちだけを対象にしてたのが、日本籍であってもコリアンのルーツをもつこどもたちにまで広がり、今では関係なく受け入れています。この変化は学校側の意向や当事者であるこどもたちの意向が積み重なり、現状を作り出して来たのでしょう。これはこの取り組みが根付いて来ている良い兆候ではないかと思います。しかし、このこどもたちが小学校を卒業するとそこには保護者の会が存在しない現実があります。それでも、小学校を卒業したこどもたちは定期的に集まり続けています。この子たちのこの行為は大きな第一歩です。子どもたちが望めば学校側も無視できないのではないかという思いや親子がともに情熱をもってあたれば実現可能ではないかとの期待が生まれます。中学校の保護者の会は大阪の大池中学校で実現し、親たちの情熱がとても充実している事は大いに励みとなるのではないかと思います。

この子どもたちが高校生になったらそこに受け皿はあるのだろうか?
この事は中学校以上に難問で地域から遠く離れる場合も有り、1970年代から多くの高校で設立された「朝鮮文化研究会」やその後の「韓国文化研究会」などが今、どれだけ存在するのかといえばほとんどその活動を聞くことがない今、そういった学校に入学する事はよっぽどの意思がない限り、難しい。
という事は、彼らがどこの高校に進学しようと入学した学校でサークルを立ち上げ横の連体を保ち続ける事が出来たならば一応の完成形を見る事が出来るのではないかと期待している。

そういった学生たちを今の保護者の会の人たちが支援し続けることは改めて言うまでもない事だと思う。
そして彼らが親となり、保護者会を支え、運営してくれる日が来るのを楽しみにしてます。

2009年6月3日水曜日

「丹波マンガン記念館」閉館パーティー




「丹波マンガン記念館」閉館パーティー    於:丹波マンガン記念館     10:30~16:30 


http://www6.ocn.ne.jp/~tanbamn/

<アクセス>
JRバス「高雄・京北線」京都駅発「周山行き」で『周山』バス停下車。
その後「京北ふるさとバス」で「下中」バス停下車、徒歩。
丹波マンガン記念館の所在地 〒601-0533 京都市右京区京北下中町西大谷45

NPO丹波マンガン記念館は、1989年5月に開館し2009年5月31日を以て閉館します。
5月31日以降は見学(団体客含)は見学をお断りしています。
5月31日丹波マンガン記念館にてAM10時30分より開催します。

丹波マンガン記念館は、初代館長である李貞鎬さんによって、1989年5月に開館されました。

李貞鎬さんはじん肺のため1995年3月に没しましたが、彼の思いは、家族の献身的な努力と負担で20年にわたって受け継がれ、維持されてきましたが、個人の力ではもはや継続は困難となり、李貞鎬さんのご子息である李龍植館長は、やむをえず「閉館」という苦渋の選択をされました。



追悼式      マンガン記念館「閉館式」(鎮魂の集い)

鎮魂の舞台   コリア舞踊 金仁姫(キムイニ)さん、趙恵美(チョヘミ)さん

鎮魂の舞台   「鎮魂と新たな門出」の歌 新井英一さん

鎮魂の舞台   京都朝鮮初級学校生徒のみなさんの歌

          李龍植館長のお話しの後、閉会です。

韓国での報道です。

NAVERニュースより -森川静子さんの翻訳文を流用させていただきました。-

 http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=104&oid=001&aid=0002689723


日本唯一の強制徴用記念館結局門を閉ざす

 

在日僑胞運営“丹波マンガン記念館”累積赤字のため閉館

(大阪=聯合ニュース)キム・ビョンギュ特派員=

日本唯一の強制徴用の記念館である「丹波マンガン記念館」が、日本の現地の存続の努力にもかかわらず、結局閉館された。丹波マンガン記念館(館長 李龍植(イ・ヨンシク)) は31日、京都府北部に位置する記念館内の資料室で閉館式を行い、記念館の運営を打ち切った。

丹波マンガン記念館は、強制徴用で連れて来られた李館長の父 李貞鎬(イ・ジョンホ、(1995年逝去)氏が、1989年に、日帝の強制徴用の歴史を記録するために、自身が働いていた鉱山に造った記念館で、日本に一つしかない強制徴用関連の記念施設だった。

 記念館は、強制徴用労働者たちの姿を坑道の中に再現した展示場と、労働者たちの証言資料などを紹介した資料館などを備え、強制労働のつらい歴史を知らせる役割を果たしてきた。
この間、李氏父子が私費を投じて運営してきたが、毎年600万円(約7,800万ウォン)づつの赤字のため、資金難に陥ってきた。

このような事実がマスコミを通して外部に知られる事により、現地では民間で存続のための募金活動が展開された。
京都所在の大学教授たちを中心にした日本の市民たちは、閉館の危機のニュースを聞いて、今年3月に「丹波マンガン記念館を再建する会」(以下 再建会)をつくって募金活動を繰り広げてきた。

また、駐大阪韓国総領事館も、記念館の鉱石を買う方法で、間接支援に乗り出した。

しかし、不景気の影響で、募金額が期待した額に及ばず、記念館側は、結局閉館を決定することになった。
李館長は、「どうにかして記念館を生かそうとしたが、結局、私の力で続けて記念館を運営するのは力不足だと判断をした」、「炭鉱で働かされて亡くなった年配の方たちの事を考えると、胸が痛みますが、やむを得ず閉館を決定した」と語った。
彼は、「記念館で保管していた資料は、民団が運営する博物館に寄贈する計画だ」、「記念館は門を閉めるが、著述活動などを通して、当時の苦痛の歴史を人々に知らせる努力を続けるつもりだ」と語った。
この日の閉館式には、マンガン鉱山に青春をささげた在日同胞1世代の人たちに対する追悼式と、鎮魂のための舞踊公演、コンサートなどもともに行われた。
再建会の事務局長の龍谷大学の細川孝教授は、「日本で多くの方々が記念館存続のために募金に参加したが、期待ほどの結果が得られなかった」、「記念館が閉館にはなったが、今後志を同じくする日本国内の学者たちとともに、日本の加害の歴史に対する調査を続ける計画だ」と語った。






わたしは、閉会を見届けることなく京都府立ゼミナールハウスでのシンポジュウムに参加しました。



<午後の部> 13:30~16:30 於:京都府立ゼミナールハウス
丹波マンガン記念館を再建する会・第2回総会
記念シンポジュウム「丹波マンガン記念館の意義と可能性」
参加費:未定(決まり次第お知らせします)
主 催:丹波マンガン記念館、丹波マンガン記念館を再建する会
問い合わせ:丹波マンガン記念館を再建する会事務局
電話075(645)8634、e-mail:
hosokawa@biz.ryukoku.ac.jp

 

☆府立ゼミナールハウスの所在地 〒601-0533 京都府京都市右京区京北下中町鳥谷2
<アクセス>「周山」バス停から「京北ふるさとバス」で「ゼミナールハウス」または「京北病院前」バス停下車、徒歩。


府立ゼミナールハウスでの「丹波マンガン記念館を再建する会・第2回総会」では解散をするのではなく後、一年はこのまま行くという報告がありました。この継続に何の意味があるのか理解できませんでしたが部外者のわたしが口を挟む事ではないと思い最後まで静かに聞いていましたが司会者の“シャンシャン総会はいやだ”という言葉とは裏腹に見事なシャンシャン総会でした。追悼式では“丹波マンガンを研究・歴史を残す会”に名称を改めるとありましたがその事には一度も触れられませんでした。しかもこの総会にそしてこの後のシンポジュウムにも館長の李龍植さんの参加がありませんでした。この会は誰のために何のために活動して来たのでしょうか?そして今後一年も誰のために何のために活動して行くというのでしょうか?

シンポジュウムでは生徒たちに強制徴用などの事実を自ら副教材を駆使しながら精力的に伝えてる地元の高校教師の話しに興味が湧きました。ご本人ともお話ししましたが「是非、先生の後を継ぐ先生を指導・育成して行ってください。」とエールを送りました。このシンポジュウムで何かをまとめる事をしなかったので内容に関する報告はありません。